ゆらゆらと体が揺れている。
重たい瞼をどうにか開くが、目に映るのはぼんやりとぼやけた銀白の月だけ。前回目を開けた時には真っ青な空に積乱雲が浮かんでいた。ということはルフィ達の許を離れてから、もう丸一日が経過したということか。
腕を上げようとしたが動かない。どうやらもうそんな力も残っていないらしい。
ゾロは、小さくため息を付いた。
体の不調に気付いたのは、朝食の時だった。特別に変わったメニューというわけでもなかったのに、妙に食べ辛い。それにいつも絶妙の味付けで出されるはずの料理が、何故か気の抜けた薄味に感じられる。
それが、指先の痺れのせいだと気付くのに大した時間はかからなかった。
痺れは、ゆっくりとだが確実に広がり、ゾロは自分の体が思うように動かせなくなる実状に恐怖した。体を動かせなければ何もできない。日常生活に困るのはまだしも、刀を持てなくなるのだ。自分の身を護ることもままならなければ、何より仲間を護るために闘う事が出来ない。
そんな自分には我慢がならない。そんな存在に堕ちたくはない。
そのうちに熱も出てきた。
暇なときには、いや、暇でない時にもおおっぴらに睡眠を取っている彼のことだから、幸い仲間達は「眠りたい」という彼の言葉を受け入れてくれた。おそらく体調不調なのはすっかり見通されていただろう。
そして思い出したのだった。
ずっと昔に聞いた、恐ろしい伝染病の話を。
まずは指先や足などの末端が痺れる。味覚や嗅覚もどんどん鈍化して行く。微熱を生じ、やがて熱は痺れの進行と同時にゆっくりと上がる。痺れは全身に及ぶ前に止まるが、その段階で熱が下がらなければ命にかかわる。致死率はおよそ50%。
今ではめっきり少なくなったが、昔はそれで乗組員が全滅し、幽霊船になった船もあったという。
ある種の魚が菌の媒介をする。
ゾロが知っているのはそんなものだ。だがそれで充分だった。
この症状は、まず間違いないだろう。
そしてこれがその伝染病だとしたら、自分だけの問題ではない。船の乗組員全員の命に係わる。
だから彼は船を離れたのだ。
まだ体の自由がきくうちに。
夕食を辞退して、皆が食堂にいる時間を見計らって小型の救命艇に乗り込んだ。自分が触れたものは可能な限り焼き捨てるように手紙を残して。上手く手が動かなくて、ミミズがのたくったような字になってしまったが、なんとか読めるはずだ。本当は自分で焼くなり海に捨てるなりしたかったのだが、そこまで動ける状態ではなかったから。
とにかく、元凶である自分が船からいなくなること。それが先決だった。あとはただ、既に他の誰かが感染していないよう祈るだけ。
もしこれが伝染病でなければ、自分は助かるかもしれないし、そうでなければ・・・・その時はその時。なるようになる。
ゴーイングメリー号が遠ざかって行くのを確認し床に横になった後の記憶は切れ切れにしかない。
熱がどんどん上がって、意識がもうろうとしてきたのだろう。
「年貢の納め時か・・・?」
自嘲気味につぶやいたつもりだったが、ひゅうひゅうと喉が鳴っただけで声は出なかった。そういえば水もろくに飲んでいない。脱水症状も起こしかけているのだろう。
銀色の冷たい月が、熱に浮かされた目ににじんで見える。ぐるぐると回転しているようで気持ちが悪い。
情けのない話だ。
死ぬときは誰かの刃にかかるのだと思っていた。
あの男を倒し、世界の頂点に立つ大剣豪となって、やがて次にやってくる若い剣客に挑まれて果てる。あるいはあの男、鷹の目のミホークに勝てず命を落とすことも覚悟していた。
それ以外で自分が死ぬことは絶対にない。あってはいけないことだと、そう堅く決意していたのに。
夢にも思わなかった。あの男、鷹の目のミホークと再びあいまみえる前に、誓い通り誰に負けることが無くても、こんな敗北もあるのだなんて。
「病気なんぞで逝っちまうことになるとはなぁ・・・」
相変わらず声は出ない。
だがまあ、これで果てるのなら、仕方のないことだ。自分は、所詮それだけの男だったということだ。
親友との誓いも果たせない、それだけの・・・・・・・・・・
「冗談じゃ、ないぜ」
不意に突き上げてくる情動。
激しい感情。
死にたくない。死んではいけない。
生きたい。
生きて、あの男と刃を交えて。
ルフィが海賊王になるのを、その傍らで見届けて。
くいなとの誓いを果たす。
生きたい!
「うおおおおぉぉぉぉっ!」
力の限りに叫んだ。
ゆっくりと自分を包み込もうとする、暗い死のあぎとに挑むように。
けれど。
この広い海原に、たった独りで何ができるというのか?
男のあがきを嘲笑うかのように、波が船端をたたく。月光がただ冷たく病に仆
れた体を照らす。
それでもあきらめない。
最後まで、俺は闘うことを止めはしない!
そうしてどれほどの時間が経ったものか。
ふ、と月の光に影が射した。
「なんと変わり果てた姿よ」
静かなその声は。
「ミ・・・ホーク」
顔は陰になって見えないけれど。いや、既に目はその機能を失っているのかもしれない。それでも。
それでも、間違えるはずがなかった。
額にひやりとした何かが触れた。鷹の目の男と、そう呼ばれる剣豪の手がそっと触れたのだった。
「だがなんという生への執着。変わらぬ強き心力よ。今のそなたはそれだけで生きている」
よけいなお世話だ。口を利く力が残っていれば、そう言い返すこともできただろうに。
「モンキー・D・ルフィーとは既に会ってきた。そなたのことをひどく心配していたぞ」
そう言いながらゾロの顔をのぞき込むミホークの瞳が、やさしく和んだ。熱に冒されたゾロには見ることが出来なかったけれど。おそらくは一生、鷹の目と呼ばれる最強の男がこんな表情をすることがあるのだと、ましてそれが自分向けられたものであっただなど、知ることは無いだろう。
「そなたが死を受け入れていないのならば、手を貸そう」
そう言うと、ミホークは懐から硝子の瓶をとりだした。
体に響かないよう、そっとゾロの上半身を起こすと、口元に瓶を持っていく。
草色をした液体が、唇からこぼれ、胸にしたたった。
「無理でも飲むのだ。唯一の薬ぞ」
だがもうゾロにはそれを飲み込む力は残っていなかった。喉も渇いている。薬だとも認識した。だが懸命に飲み込もうとする努力は、ほとんど無駄に終わった。舌が痺れ強ばって、喉の奥まで液体を運ぶことが出来ないのだ。
「よい、力を抜け。それでは逆効果だ」
ミホークは薬を自分の口に含んだ。
月光に浮かぶ二つの陰が、完全に重なった。
ゾロに何が起こったか判ったかどうか。
ただ、口の中に何かが触れ、飲み込めるほど喉の奥に液体が流し込まれたということだけであった。
ごくりと喉が動く。
大半は口の橋からこぼれて落ちた。だがほんの少しではあったけれど、命の水は確実にゾロの体内に取り入れられた。
「そう、それで良い」
ミホークは辛抱強く薬を飲ませた。
注意深く唇を重ね、舌すらも満足に動かせない男がむせて窒息しないように。何度も何度も、これで充分と思える量をゾロが飲み尽くすまで。
「これを、良い教訓とするのだ。死とは、戦いによってのみ訪れるものではない。その心力に従ってひたすらに生きるのはよい。だが忘れるな。剣と同じく、生き様に柔無き者もまた真の強者にはなれぬことを」
薬を飲む。ただそれだけの行為に残っていた全体力を使い果たしたゾロの、意外にもやわらかい若草色の髪を優しく撫でて、世界で最強と謳われる剣豪は言い聞かせるようにそう告げた。
頷くことも反駁することも出来ずに、ぼんやりと霞んだゾロの精神の中に、ただその言葉は届いた。その意味するところを彼が考えられるようになるのは、まだまだ随分と先のことになるのだろうけれど。
ミホークが、ゾロを抱いて立ち上がった。
「そなたが志半ばで果ててしまえば、俺の楽しみが無くなってしまう。最強の座を奪いにくるまで、潰えること無き様、心からそう望むぞ、ゾロ」
だが既にゾロは深い眠りの淵を、ゆっくりとたゆたいはじめていた。
暗黒の、昏く冷たい死の眠りではなく、あたたかな、肉親のぬくもりを持つかのような生命の眠りの闇の中を。
「サンジくん!」
愛しいナミの言葉も、サンジの怒りの前には何の効果もなかった。だがゴーイングメリー号の他のクルーの呼びかけと違い、彼の頭に届くことには成功したらしい。
ルフィの特等席であるはずの、船首の飾りに座り込んで、見る者がぞっとするような怒りのオーラを発散させ続けていたサンジは、ここ半日で初めてぴくりと体を動かした。
「・・・・放っておいて下さい、ナミさん。食事は、すみませんがあるものでなんとかしてもらえますか?」
振り向きもせず、その穏やかな語調には、だが聞き間違えようのない激情が含まれている。それが、クルーの健康を預かるコックが、自分を責めているためのものであることくらい、ナミにもようく判ってはいるのだが。
だがこのままにはしておけない。
ゾロのことも心配だが、とりあえず薬を持ってミホークが迎えに行ってくれた。得体の知れない男ではあるが、彼に任せておけばきっと大丈夫だ。八年の間、海賊と喰うか喰われるかの騙し合いを繰り広げてきた彼女には、それくらいの人を見る目はある。
それよりもサンジだ。
『この俺が!食材のことはようく知っている。特に海の食材なら、何が毒でなにが薬になるかまで、把握しているはずのこの俺が!』
血を吐くようなサンジの叫びが、頭にこびりついて離れない。怒りにまかせて拳を打ち付けられた甲板には、今でも大きな穴が修復を待っている。飛び散った木片に血が付いていたのに気付いたのはナミばかりではなかった。
ナミは、深呼吸をしてなるべく穏やかに話し出した。
「サンジ君、私たち、あなたの料理でなきゃ食べたくないのよ。すっかり美味しい味に慣らされちゃったから。ねぇお願い、私達が空腹で倒れちゃう前に、戻ってきて?」
だが黒いスーツは微動だにしない。
「サンジ君」
夜も更けたこの刻限。月がゆっくりと水平線に触れ、銀色の淡い光が海面に最後の輝きを映す。
あわあわと浮かび上がる、細身の黒い陰と化した背中がなんだか泣いているみたいで。
もう少し、このままにしてあげたほうが良いのかもしれない。
あいつは海に飛び込んだりはしねぇ。そう言っていたルフィの言葉を信じてみよう。背中を向けかけたナミを、ぽつりとサンジの声が追いかけた。
「コックなら、客に何を食べさせているか常に承知していなけりゃいけねぇ。初めての材料だって、どこが食べられてどこが有害か、それくらい判断できねぇ奴にコックの資格なんざねぇんです。なのに俺は、あいつにクソけったくそ悪ぃ病持ちの魚を食わせちまった」
「そうと決まったわけじゃないでしょう?現に私達はこうして何ともないんだし」
「気休めはいいです。ここ二週間、船は何処にも立ち寄っていない。あの病気の潜伏期間は平均して一週間。俺達は、単に運が良かっただけですよ」
「そんな・・・そんなこと・・・」
「確かにそなたの料理が原因ではない」
「!ミホーク、ゾロっ!」
いつのまに現れたのか。常に神出鬼没の男が、ぐったりと力の抜けた病人を抱きかかえたまま、甲板に立っていた。
「無事なのかっ?」
振り向いたサンジに、ミホークは軽く頷いて見せた。
「休ませてやればやがて目覚めるだろう。滋養の高いものを食させてやってくれ」
「!しかし俺は・・・」
「アーロンパーク。確かそんな名だったな」
つかつかとゾロを抱いたまま船首に歩み寄ると、ミホークは意外な事を口にした。アーロンパークといえば、ほんの半月前に後にしてきたナミのふるさとを占拠していた魚人海賊団のアジトの事だ。
「ジンベエが許にいた魚人であろう。あれの仲間に、血液に菌を持つ種類がいた。この者には俺が負わせた傷があったはず。そこから感染したと考えるのが妥当であろうな。この病が発症するまで、多くの者は一週間とかからぬが、時として一月ぴんぴんしている者もいる。第一、イーストブルーには病を保菌する魚は今はおらぬ」
「本当なの?」
「然り」
「よかったなーっ、サンジ!」
「どわっ、よせ、来るなルフィっ」
いつの間にか一緒に話を聞いていたゴーイングメリー号の船長が、思い切りよく甲板を蹴って飾りに向かって飛び出した。
「あ、あぶねぇだろうが!落ちたらどうするんだ、泳げないんだろ、てめぇはっ」
「俺、落ちねーから」
平然と言い放つと、彼は片腕をサンジに支えられたままくるりと振り返った。意志の強そうな瞳が、剣豪の鋭いまなざしにひたと据えられる。まだ幼さを残す少年顔のルフィだが、こんな時はその表情だけでなく体までひとまわり大きくみえる。
「ゾロは、大丈夫なんだな?」
ミホークは、唇の片側だけを上げて笑みを浮かべた。
「まったく驚かされることだ。この船に乗り組む者は皆、恐るべき心力の強さを
持っている。そのコックもまた、選んだ得物は違っても、立派な海の戦士だな」
ニッと、ルフィが笑いを返す。
「当たり前だっての。俺達は仲間なんだから」
「良い仲間だ」
「シシシシ。うらやましーか?」
照れでも自慢でもない。
ただ、心からの笑顔で。
鷹の目の男が、声を上げて笑い出す。
それがもうめったに無い本当に珍しいことなのだと、未来の海賊王とその仲間達の誰も知ることはなかったけれど。
「さ、この者を休ませてやるが良い。いつまでも我が腕に留めるわけにはゆかぬ」
いつのまにか月はすっかり沈んでいた。けれど海上には既に朝の気配が漂い始めている。
微かに赤らみ始めた海に浮かぶキャラヴェルから、小さな漆黒の船が静かに離れていって、後はただ船腹を打つ穏やかな波の音だけ。
未来へと続く朝日が一日の始まりを告げるには、まだほんの少しだけ時間のある、穏やかな薄明であった。
暁月夜
00・7・8 |